宮本百合子の作品

 さきごろは「鉛筆詩抄」を頂きまことにありがとうございました。
 この前、鉛筆の詩を拝見したときから、わたしに感銘されていた詩の精神が、ここに集められているすべての詩のなかにこもっています。日本にも、生活そのものの中から、「言葉の魔術」をふりきって、「詩のポーズ」をけとばして、うたわれて来る詩のできたことは、何とうれしいでしょう。
 わたしは詩というものが書けないけれども、詩をこのみます。散文では、何かの間にはさまって数行しか書けない人生の感覚を、詩は純粋にそのものとして一つの奥ゆきある現実としてうち出します。これらの詩によってあらわされている人生の感じかたは、わたしが成功しまた成功しない小説の底を貫いて響かせようと欲しているその感じかたです。序文に「世帯じみる」という言葉がつかわれていますけれども、もしその言葉を使うとすればそれは全く新しい内容によって云わなければならないだろうと思います。なぜなら、「薬鑵の詩」「市内電車」「帽子昇天」などは「詩集と結婚と出産と」「父となる日」「わが家の正月」などとともに、決して、古い意味での世界の主の感情ではないのだから。「わが家の正月」「詩集と結婚と出産と」などには、実にあったかくて、清潔で、狎れ合ってしまわない人間同士の、親と子と、良人と妻とのつどい、生き、たたかううたがあります。その人間らしいうたのひびきは「冬こそ春を支度する」を通じ、「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」へ「合唱する人たち」へ通じます。(「合唱する人たち」の第五章四行あたり、何か人間というものの神聖が感じられました。自然で、自然であるがゆえにまじめな。)「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」には、心と耳とをかたむけてそれをきき、いつしか自分もその行進にまきこまれて足をすすめ出すような音楽がみちています。この音楽と、いつか展望にのった高村光太郎の「ブランデンブルグ」とを思い比べずにはいられません。何というちがいでしょう。ここにわれらの鳴りひびく打楽器があります。あすこには、雪のきらめく山嶺とそこに孤独であってはじめて確保された唯心的で超歴史的な恍惚があります。「運河」「畳」「家」これらは、これらとして独自の断面から、日本の人民の生きかたについてを思わせます。「鉛筆詩抄」にあるどの詩も、その詩としておのずからな生活上のモティーヴにおいて生れていることにつよくうたれます。わたしは文学において、その点での自然性を高く評価するたちです。そのモティーヴの必然性がより高く、よりつよく、より美しくあるためにこそ、わたしたちの人生は「風」をいとわず「猫背」をきらい、「なんじゃもんじゃ」にからめとられまいとするのです。

 森鴎外の「歴史もの」は、大正元年十月の中央公論に「興津彌五右衛門の遺書」が載せられたのが第一作であった。そして、斎藤茂吉氏の解説によると、この一作のかかれた動機は、その年九月十三日明治大帝の御大葬にあたって乃木大将夫妻の殉死があった。夜半青山の御大葬式場から退出しての帰途、その噂をきいて「予半信半疑す」と日記にかかれているそうである。つづいて、鴎外は乃木夫妻の納棺式に臨み、十八日の葬式にも列った。同日の日記に「興津彌五右衛門を艸して中央公論に寄す」とあって、乃木夫妻の死を知った十四日から三日ぐらいの間に、しかもその間には夫妻の納棺式や葬儀に列しつつ、この作品は書かれたのであった。
 十四日に噂をきいた折は「半信半疑す」という感情におかれた鴎外が、つづく三日ばかりの間に、この作品を書かずにいられなくなって行った心持の必然はなかなか面白い。一応の常識に、半信半疑という驚きで受けられた乃木夫妻の死は、あと三日ほどの間に、鴎外の心の中で、その行為として十分肯ける内的動因が見出されたのであろう。夫妻の生涯をそこに閉じさせたその動因は、老いた武将夫妻にとっての必然であって、従って、なまものじりの当時の常識批判は片腹痛く苦々しいものに感じられたのであったろう。興津彌五右衛門が正徳四年に主人である細川三斎公の十三回忌に、船岡山の麓で切腹した。その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木を買うか末木を買うかという口論から、本木説を固守した彌五右衛門は相役横田から仕かけられてその男を只一打に討ち果した。彌五右衛門は「某は只主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰候わば、鉄壁なりとも乗りとり可申、あの首とれと被仰候わば、鬼神なりとも討ち果し可申と同じく、珍らしき品を求めて参れと被仰候えば、此上なき名物を求めん所存なり」という封建武人のモラルに立って、計らず相役と事を生じるに至った。伽羅の本木を買ってかえった彌五右衛門は切腹被仰附度と願ったが、その香木が見事な逸物で早速「初音」と銘をつけた三斎公は、天晴なりとして、討たれた横田嫡子を御前によび出し、盃をとりかわさせて意趣をふくまざる旨を誓言させた。その後、その香木は「白菊」と銘を改め細川家にとって数々の名誉を与えるものとなったのであるが、彌五右衛門は、三斎公に助命された恩義を思って、江戸詰御留守居という義務からやっと自由になった十三年目に、欣然として殉死した。三斎公の言葉として、作者鴎外は、「総て功利の念を以て物を視候わば、此の世に尊き物はなくなるべし」と云っている。乃木夫妻の死という行為に対して、初めは半信半疑であった作者が、世論の様々を耳にして、一つの情熱を身内に感じるようになって彌五右衛門が恩義によって死した心を描いたのは作者の精神の構造がそこに映っている意味からも面白いと思う。当時五十歳になっていた森鴎外は、このような生々しい動機から我知らず彼の一つらなりの「歴史もの」に歩み出したのであった。
 封建のモラルをそれなりその無垢を美しさとして肯定して書いた第一作から、第二作の「阿部一族」迄の間には、作者鴎外の客観性も現実性も深く大きく展開されている。芸術家としての鴎外が興津彌五右衛門の境地にのみとどまり得ないで、一年ののちには更に社会的に、その社会を客観する意味で歴史的に、殉死というテーマをくりかえし発展させて省察している点は、後代からも関心をもって観察せられるべきであろうと思う。

 つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている一種の美をつよく感じながら、愛情と羞らいのまじった心でもって、鴎外の方は馬上にあるからというばかりでなく、自分を低く小さい者に感じながら少し道をよけたものであった。観潮楼から斜かいにその頃は至って狭く急であった団子坂をよこぎって杉林と交番のある通りへ入ったところから、私は毎朝、白山の方へ歩いて行ったのであった。
 最近、本を読んで暮すしか仕方のない生活に置かれていた時、私は偶然「安井夫人」という鴎外の書いた短い伝記を読む機会があった。ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男であった安井仲平のところへ、十六歳の時、姉にかわって進んで嫁し、質素ながら耀きのある生涯を終った佐代子という美貌の夫人の記録である。「ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとして纔に免れ」「辺務を談ぜないということを書いて二階に張り出し」たりした安井息軒の生きかたをそのままに眺めている鴎外の眼も、私に或る感興を与えた。この短い伝記の中に、鴎外にとって好ましい女の或る精神的な魅力の典型の一つを語っているらしいところも面白い。最後に、鴎外は、外見には労苦の連続であった「お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであったとは誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥に尋常でない望みがあり」「必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで美しい目の視線は遠い遠い所に注がれていて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、或は何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか」と結んでいる。多くの言葉は費されていないが、私はこの条を読んだ時、一すじの閃光が鴎外という人の複雑な内部の矛盾・構成の諸要素の配列の上に閃いたという感銘を受けた。そして、彼が自分の子供たちに皆マリ、アンヌ、オットウ、ルイなどという西洋の名をつけていたことに思い到り、しかもそれをいずれも難しい漢字にあてはめて読ませている、その微妙な、同時に彼の生涯を恐らく貫ぬいているであろう重要な心持を、明治文学研究者はどう掴んでいるのだろうか、と感想を刺戟された。漱石全集を読み直していた時だったので、明治時代のインテリゲンツィアが持っていた錯雑性という点からもいろいろ考えられた。